作業場は元鯨解体場 50年以上前に大島から移築
和歌山県串本町須江で土木建築業を営む太田勲夫さん(82)の自宅前にある作業場は、かつて同町大島にあった鯨解体場だ。50年以上前に移築したという。捕鯨の歴史に詳しい太地町歴史資料室学芸員の櫻井敬人さん(48)は「残っている当時の資料は少ないので非常に貴重」と話している。
太田さんによると、木造1階建ての作業場は、同町大島にある近畿大学水産研究所大島実験場の土地にあった大洋漁業株式会社の鯨解体場。25歳ぐらいの時、父が経営する会社の社員として4、5棟解体し、そのうち1棟を移築した。残りの建物は薪などにして処分したという。
串本町史によると、1950年、大島には捕鯨会社が日水、大洋、日東の3社あった。鯨肉の販売のほか、製油、肥料製造などの業者も15軒あり、にぎわっていたという。大洋は、解体したクジラの血を一滴も海に流さないという近代的な解体場を造っていて、地元の人たちは大洋のことを「まるは」と呼んでいたという。その後、極洋、近海の2社が加わり、大島を基地として活躍した捕鯨会社は5社になったという。
大島区民会の記録によると、クジラの捕獲数は59年の278頭をピークに減少。63年に日水が9頭捕獲したのを最後に、記録が途絶えている。日水が正式に大島事業場を閉鎖したのは70年3月となっているが、大洋の閉鎖は不明と記されている。
太田さんは「子どもの頃は大島でクジラが捕れた時には、肉を配ってくれたことを覚えている」と言い、大島区長の稲田賢さん(70)は「子どもの頃は大きなクジラが解体されるのをみんなで見に行っていた。解体場の周りにも肥料などを作る加工場がたくさんあった」と振り返った。
串本町を含む熊野灘沿岸地域は、江戸初期から古式捕鯨が始まり、今でも捕鯨にまつわる文化を色濃く残していることから、2016年4月に文化庁から日本遺産『鯨とともに生きる』に認定されている。同町樫野には、古座浦(串本町古座)を本拠とした古座鯨方が回遊するクジラをいち早く発見し、それを漁船に伝える役目を担った「樫野崎の鯨山見」がある。
太田さんによると、木造1階建ての作業場は、同町大島にある近畿大学水産研究所大島実験場の土地にあった大洋漁業株式会社の鯨解体場。25歳ぐらいの時、父が経営する会社の社員として4、5棟解体し、そのうち1棟を移築した。残りの建物は薪などにして処分したという。
串本町史によると、1950年、大島には捕鯨会社が日水、大洋、日東の3社あった。鯨肉の販売のほか、製油、肥料製造などの業者も15軒あり、にぎわっていたという。大洋は、解体したクジラの血を一滴も海に流さないという近代的な解体場を造っていて、地元の人たちは大洋のことを「まるは」と呼んでいたという。その後、極洋、近海の2社が加わり、大島を基地として活躍した捕鯨会社は5社になったという。
大島区民会の記録によると、クジラの捕獲数は59年の278頭をピークに減少。63年に日水が9頭捕獲したのを最後に、記録が途絶えている。日水が正式に大島事業場を閉鎖したのは70年3月となっているが、大洋の閉鎖は不明と記されている。
太田さんは「子どもの頃は大島でクジラが捕れた時には、肉を配ってくれたことを覚えている」と言い、大島区長の稲田賢さん(70)は「子どもの頃は大きなクジラが解体されるのをみんなで見に行っていた。解体場の周りにも肥料などを作る加工場がたくさんあった」と振り返った。
串本町を含む熊野灘沿岸地域は、江戸初期から古式捕鯨が始まり、今でも捕鯨にまつわる文化を色濃く残していることから、2016年4月に文化庁から日本遺産『鯨とともに生きる』に認定されている。同町樫野には、古座浦(串本町古座)を本拠とした古座鯨方が回遊するクジラをいち早く発見し、それを漁船に伝える役目を担った「樫野崎の鯨山見」がある。