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2024年12月04日(水)

語り継ぐ記憶(3)/宮本茂(みやもと しげる)さん(94)/古座川町蔵土/造船所も戦場だった

宮本茂さん
宮本茂さん
 1943(昭和18)年4月、14歳で神戸市にある三菱重工業の神戸造船所に入った。そこも戦場だった。

 各学校には神戸や大阪から軍需工場への募集が回ってきて、自分も応募した。

 須磨にあった寮に入り、電車で30分ほどかけて造船所に通った。起床・消灯ラッパが鳴る軍隊式生活。初めは家が恋しかった。逃げ帰る友もいた。何か不届きなことがあれば、班の連帯責任だとして並ばされ、先輩から平手打ちされた。

 「潜水艦」の部署に配属され、電気回りやパイプなどの部品を取り付ける仕事をした。「小型潜水艦の内部は今でいうとバス車両の広さくらい。夏はものすごく暑かった」

 恐ろしかったのは、44(昭和19)年ごろから飛来するようになった米軍機。造船所を狙って機銃掃射し、爆弾を落とした。空襲警報が鳴り、拡声器からは「退避、退避」と声が飛んだ。船を海におろすための鉄筋コンクリートの坂の下の空間に逃げ込んだ。

 防波堤のような場所のあちらこちらに機銃が据えられ、敵機が来ると水兵が配置について応射した。撃たれて負傷するのも目にした。

 夜、街には焼夷(しょうい)弾が落とされた。45(昭和20)年の初めごろだったか、山の方に逃げて無事だったが、寮も丸焼けになった。

 少し違ったら死んでいたと思うこともあった。焼夷弾から逃げる時、布団を四つ折りにして頭に乗せて無我夢中で橋の下に逃げた。ふと気付くと布団に火が付いていた。

 だんだんと工場内でも先輩が徴兵されて戦地へ出て行って習熟した人が少なくなり、代わりに若い人が入ってくるということが繰り返された。寮を移って数カ月後、終戦を迎えた。

 故郷に戻ると、家のそばには、行く時にはなかった防空壕(ごう)が掘られていた。体験したからこそ言える。「戦争はもうごめんだ。戦争だけはしたらあかんと思います」