和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年12月23日(月)

語り継ぐ記憶(6)/長井 準(ながい ひとし)さん(93)/田辺市神子浜2丁目/学徒動員 仮病で自由に

長井準さん
長井準さん
 1945(昭和20)年4月5日、田辺中学校3年生150人は闘雞神社に参拝し、田辺市新庄町にできた造船所に向かった。学徒勤労動員である。学業の代わりに、日々働くことになった。

 造船所では約200トンの木造船を造っていた。ただ物資不足の影響でエンジンは取り付けていなかった。作業は単純でカンナや手おので、板を削るくらいだった。

 6月中旬、空襲警報が鳴ったが誰も驚かなかった。この頃にはすっかり慣れていた。ところが、この時は急を告げる半鐘の音が混じった。すさまじい爆音とともに、爆弾が造船所内に数発落とされた。仰いだ空に米軍機がはっきり見えた。尾翼に特徴のある爆撃機B25だった。

 「こんなところで、死にたくない」。勤労精神は一気になくなった。翌日、病院で「胃が痛い。休養したいので診断書を書いてほしい」とお願いした。即座に書いてくれたが、「たった3日。これでは計画と違う」。「3」と「日」の間に「か」を入れ、「日」を「月」に書き直した。それを神妙な態度で、造船所に提出。自由の身になった。

 「でも空襲は激しくなるし、食べ物はカボチャや芋のつるくらい。いつもおなかをすかせ、いいことは何もなかった」と振り返る。

 8月15日、父方の祖父の初盆で墓参りに行った。「珍しく空襲警報が一度も鳴らないな」と思いながら帰宅すると、近所のおじさんに「戦争が終わった。日本は負けた」と告げられた。

 家にはラジオがなかったので、玉音放送を聞いていない。本当にそうなのか。まだ分からないでいたが、ある商店のラジオからジョルジュ・ビゼー作曲のカルメン組曲が流れてきた。そこで初めて「日本は負けたのだ」と実感した。

 戦後は復学し、大学にも進学。失われた学生時代を取り戻した。