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2024年11月21日(木)

語り継ぐ記憶(5)/松本千鶴子(まつもと ちづこ)さん(82)/田辺市中辺路町/空襲の光景鮮明

松本千鶴子さん
松本千鶴子さん
 子ども時代は堺市で過ごした。戦時中、堺市には5回にわたる空襲があり、多くの市民が犠牲になっている。中でも、1945(昭和20)年7月10日の4回目の空襲では、一夜にして1800人以上もの命が失われた。

 空襲を体験したのは4歳の頃。「焼夷(しょうい)弾だったのだろう。暗闇の中、銀色にキラキラ光るものがゆっくり空から落ちてきた。戦争にふさわしくないけれど、きれいだと感じた」。戦争は理解できていなかったが、空襲の光景は鮮明に記憶している。

 自宅近くに大きな工場があり、大人たちは空襲で狙われると心配していた。空襲のたび、真夜中にたたき起こされ、リヤカーに乗せられて逃げた。仁徳天皇陵古墳近くにある親類の家まで1時間近くかかった。自宅は戦火を免れ、両親とも無事に終戦を迎えることができた。

 空襲とともに記憶に残るのがひもじさ。「いつも空腹だった。ご飯はほとんど麦ばかり」。戦中はもちろん、戦後も食糧難は続いた。「農業の大切さを実感している。輸入に頼る日本の食料事情は本当に心配」と危惧する。

 戦後の学校は、子どもの数が多かった。「中学校は1学年50人が12クラス。その中には戦争で親を亡くした人もいた。仲が良かった同級生の女子は、生まれる前に出征した父親の顔を知らず『形見の腕時計だけがつながり』と話していた」と振り返る。

 戦後、大人から戦争の話を聞くことはほとんどなかった。「嫌な記憶というだけでなく、同じ体験をした人でないと伝わらないという思いもあったのだと思う」。2020年に自身の戦争体験や戦後の生活を童話にまとめた。「今も戦争はなくなっていない。体験者の声を伝えることが大事」と話す。