和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年12月23日(月)

語り継ぐ記憶(4)/柏木敦子(かしわぎ あつこ)さん(87)/田辺市新庄町/都会からの疎開

柏木敦子さん
柏木敦子さん
 大阪市出身。父は百貨店に勤務しており、暮らしは比較的豊かだった。1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まり、父も召集された。母と弟と3人で母の地元田辺市磯間に疎開した。「私は革靴を履いていたけれど、磯間ではみんなわら草履。服装もまるで違った」。周囲の環境は一変した。

 子どもにとって何より大きかったのは言葉の違い。小学校では当初、宿題を代わりにさせられたり、みんなのかばんを持たされたりした。「でも、無視されることもないし、一緒に遊ぶようになりすぐになじんだ」と話す。

 空襲はたびたびあった。ある日、日中に1機の艦載機が低空を飛来してきた。防空壕(ごう)に逃げたが、ドアを閉められないでいると艦載機が間近に迫ってきた。「まるで私を狙って追いかけてきたように感じた。パイロットの顔も見えた」と恐怖を感じた。

 日吉神社の近くにあった砲台が火を噴いたが命中することなく、艦載機は去って行った。偵察だったのだろう。その数日後、文里2丁目にあった初年兵の訓練施設「田辺海兵団」が爆撃を受けた。

 物がない時代。広島県呉市にいた父から送られた缶詰、大事にしまっていた着物が盗まれることがあった。誰が取ったかは分かっている。けれど母からは「うちには他に食べ物も着るものもあるのだから、何も言わないで」と言い聞かせられた。

 大阪市で大きな空襲があった後、母と2人で自宅の状況を確認するため帰ったことがある。周囲は一面の焼け野原。歩いていると戦災孤児が集まってきた。

 母は「小さい子から食べるように」と弁当を分け与えた。「自分の弁当を取られた私はがっくりきたけれど、母らしかった」。孤児は取り合いすることなく、小さな子どもを優先していたのが印象に残っている。

 「戦争を体験していなくても今は優れたドキュメンタリー番組がある。陸軍特別攻撃隊員の遺書などを展示している『知覧特攻平和会館』(鹿児島県南九州市)なども訪れてほしい。多くの犠牲の上に今がある。二度と起こさないために、戦争について考えてほしい」と力を込めた。