和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年12月23日(月)

語り継ぐ記憶(2)/左向 美智子(さこう みちこ)さん(86)/田辺市上芳養/ひもじさとの戦い

左向美智子さん
左向美智子さん
 田辺市上芳養の小学校に入学した1944(昭和19)年は戦争真っただ中。毎日のように空襲警報が鳴り、学校裏の山へ逃げ込んだ。「ビーン」という音を立てて米軍機がすぐ上空を飛んでいく。「今ならこんな山奥に爆弾なんて落とすはずないと思うけれど、当時はただ怖かった」と振り返る。

 戦時中も低学年は授業があったが、上級生は畑仕事や炭焼きに駆り出された。低学年も授業が終われば田んぼに直行。「働き盛りの男性は戦争に取られている。子どもも労働力だった」。山で薪を調達したり、米を足踏み式の臼で精米したり。草履を作るのも子どもの仕事。遊んでいた記憶はないという。

 せっかく作った米も軍に供出するため、手元にはほとんど残らない。「食べるのはサツマイモばかり。イモで育った。米は宝物。米を大切に思う気持ちは今も変わらない」と話す。

 たまに魚の配給があったが、一家にサンマ1匹。祖父と母の3人暮らしで、3等分して真ん中は祖父のもの。頭かしっぽを母と選んだ。「兄弟の多い家は5等分、6等分にして取り合いだったと聞く。うちはまだ平和だった」と笑う。

 終戦の知らせは、うれしかった。「勝ち負けなんてどうでもよくて、もう逃げなくていいし、夜電気をつけてもいい。安心して暮らせるとホッとした」

 ただ、戦後も生活は苦しかった。母を助け、畑仕事に打ち込む日々。ひもじいのは我慢できたが、友達の家に父親が帰ってくるのを見るとうらやましかった。父は39(昭和14)年に満州で亡くなっていた。顔も知らない。戦争がなければと思いが募った。

 シベリアに抑留されていた人たちも帰還してきた。ほとんどが過酷な体験ばかりだったが、怖いだけと思っていたロシア兵にも親切な人がいて、日本人を助けてくれたという話が意外で印象に残った。ロシアとウクライナの戦争のニュースが流れるたび、胸が痛む。

 畑仕事は今も続けている。「産直店に出して、売れるとうれしい。昔は嫌々だったけど、今は生きがい」と笑顔を見せた。