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2024年12月22日(日)

語り継ぐ記憶(5)/垣内浪子〈かきうち なみこ〉さん(94)/みなべ町山内/敗戦の絶望から希望へ

語り継ぐ記憶・垣内浪子さん
語り継ぐ記憶・垣内浪子さん
 「一億手をつないでいばらの道へ」。終戦翌日の1945(昭和20)年8月16日、朝刊1面の見出しは記憶に強く残っている。「勝利を信じて苦しいことに耐えてきたのに、もっと苦しいことが待っているのか」。父も母も声を失った。

 田辺市秋津川で生まれ育った。9歳で日中戦争が始まり、学校は戦争一色に染まっていく。授業はほとんどなく、畑作業の勤労奉仕と竹やりの訓練ばかりになった。

 竹やりは各家庭で用意する。「私も父に作ってもらった。先が鋭くとがっていて、学校では米兵が上陸してきたらこれで戦うのだと教えられた」と振り返る。

 大きな戦果があった際は、小学5年生以上は全員、地域のシンボル的な高尾山に登り、山頂で「万歳」を繰り返し叫んだ。「あのころはしんどいとも言えず、言われるままに行動した」と話す。

 「田舎だったので空襲に遭ったことはない。ただ、上空を戦闘機が飛ぶのをおびえて見ていた。照明の使用は規制されていた。警防団が見回りに来て、少しでも明かりが漏れていると厳しく注意される。『敵の飛行機より怖い』と話す大人もいた」。戦争の影はどんどん濃くなっていた。

 若い男性は皆、戦地にかり出された。10歳上の兄もミャンマーにいたが、栄養失調で倒れ、終戦を上海の野戦病院で迎えた。病院では毎日、戦友が一人二人と息絶える。小指を切断して名前を記した後、遺体は大きな防空壕(ごう)に捨てられていったという。

 「明日はわが身」と感じた兄は、病院を抜け出し、弱り切った体で復員船に乗り込み、自宅に帰り着いた。しかし、衰弱は激しく、3カ月後に亡くなった。27歳だった。

 戦後も貧しい日々は続いたが、希望の持てる変化も生まれた。「自由に発言できるようになったのが大きい。平和が来たと実感した。戦争は二度としてはいけない」と話した。