和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年11月28日(木)

語り継ぐ記憶(2)/まちが焼ける熱さ/井上千鶴子〈いのうえ ちづこ〉さん(84)/田辺市高雄1丁目

語り継ぐ記憶・井上千鶴子さん
語り継ぐ記憶・井上千鶴子さん
 1945(昭和20)年7月9日、和歌山市は米軍機が大量に落とした焼夷(しょうい)弾で焦土と化した。「和歌山大空襲」である。まちも空も真っ赤に燃え、熱風が吹き荒れる中を逃げた記憶が残る。

 市内の中心部、和歌山城近くに住んでいた。当時7歳。それまでも空襲で避難したことはあったが、規模が違った。1歳の妹を背負う母の手を握り、紀ノ川を目指して逃げた。

 炎が周囲を覆い、昼なのか夜なのかさえ、分からなくなるほどだった。熱気がすさまじく、用水おけの水をかぶって避難した。「水はぬるいお湯になっていた。ぬれた服もすぐに乾く。あまりの熱さに道の舗装も溶けていて、足を取られながら逃げた」と振り返る。

 紀ノ川に首までつかり、真っ赤に燃える空を見上げ、爆音を聞き、おびえながら一夜を過ごした。消防団として消火活動にあたっていた父が、翌朝捜しに来てくれて無事に再会した。

 帰路にある神社の境内には20人分ほどの死体が並べられていた。「焼けた死体はなぜか膨らんで大きく見えた。漂う異臭と時々聞こえてくるプスッという音が怖かった。倒れたまま『水をくれ』とうめく人もいた。あの地獄絵図の中に確かに私はいた」。それ以前の記憶はほとんど残っていない。空襲だけが強烈に刻まれた。

 家は焼け落ち、父の営む食堂があったビルでしばらく過ごした後、父の実家があった徳島県に移った。その後、母の実家の海南市に移り、14歳で田辺市に引っ越してきた。空襲の体験を語り合う友達がいなかったことから、子どもや孫にもほとんど話したことがなかったという。

 ところがロシア軍がウクライナに侵攻したニュースを見て、あの頃の記憶が呼び覚まされた。「ウクライナ人の痛みが私の記憶と重なる。元気なうちに、あの惨劇を伝えておかなければならない」と力を込めた。