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2024年12月22日(日)

語り継ぐ記憶(1)/保富準三〈ほとみ じゅんぞう〉さん(90)/田辺市上の山1丁目/教育の怖さ

語り継ぐ記憶・保富準三さん
語り継ぐ記憶・保富準三さん
 終戦から77年目の夏。自身の戦争体験を語れる人は年々少なくなっている。8月15日(終戦記念日)を前に、戦時下の暮らしの体験談を集めた「語り継ぐ記憶」を連載する。


 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年、小学5年生だった。軍事教育が盛んだったころ。絵が得意だったため先生に言われ、マレー沖海戦で日本軍が沈めた英国戦艦プリンス・オブ・ウェールズの沈没場面を描いた。誇らしい気持ちだった。

 少年たちの憧れは、戦闘機のパイロットになること。「小学校時代、一番勉強のできた同級生が、少年飛行兵学校に志願した。その後、どうなったかは分からないが、当時はうらやましかった」と振り返る。

 戦争に負けるとは思っていなかったが、物資の不足は明らかだった。食べる物がなく、校庭を耕してイモを植えた。「勤労奉仕では田辺第二小学校からはだしで歩いて、万呂と三栖の境にある河川敷を耕しに行った。イモを収穫する時は、こっそりくすねることは普通にみんなやっていた」と振り返る。

 終戦が近づくと、田辺市にもB29はたびたび飛来した。最初に警戒警報、接近すると空襲警報が鳴ったが、大抵は上空を通過するだけだった。手製の簡易な望遠鏡で「格好いいな」と戦闘機を眺めていた。

 ところが、45(昭和20)年7月、警戒警報さえなく、突如バリバリというエンジン音とともに戦闘機が飛来し、銃撃を始めた。同市南新町の海蔵寺付近にあった自宅にいたが、2歳下の妹と慌てて庭の防空壕(ごう)に逃げ込んだ。

 「沖まで空母で近づいていたのだろう。あっという間に襲ってきた。紀伊田辺駅の方も攻撃を受けた」。空襲でちぎれたレールの一部を今も持っている。後にきり箱などを作る職人になったが、制作時の重しに使っていたという。

 「戦争なんかしてはいけない。実感しているけれど、90歳になってもまだ戦闘機への憧れがある。教育の力は恐ろしい。ウクライナでも悲劇が起きている。戦争を起こさないための教育に力を入れてほしい」と話している。