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2024年12月23日(月)

語り継ぐ記憶(5)14歳で満州へ/田隅富夫(たずみとみお)さん(89)田辺市龍神村

語り継ぐ記憶・田隅富夫
語り継ぐ記憶・田隅富夫
 田辺市龍神村の田隅富夫さん(89)は戦時中、満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州国に渡った少年たちの一人だった。

 1944年3月、高等小学校(現在の中学校に相当)卒業を前に、義勇軍に志願。学校に勧誘があり、半強制的だったが「国のため」と迷いはなかった。「軍国教育の影響」と今は恐ろしく感じる。

 6人きょうだいの末っ子で、父は生まれる前に事故で亡くなっていた。「家族のため」という気持ちもあった。

 トランクに着替えなどを詰め込み、トラックの荷台に乗って故郷を離れた。校長が「バンザイ、バンザイ」と送り出してくれた光景をいまも鮮明に覚えている。

 茨城県の内原訓練所で3カ月間訓練を受け、6月に満州の吉林省に渡った。夏場は大豆や野菜などを栽培。冬は兵隊としての訓練に明け暮れた。

 冬の寒さは厳しい。風呂上がりに身体を拭いたタオルがすぐに凍った。トイレには凍った大便が山積みとなり、鍬で周辺にどけた。ところが、暖房に使っていたペチカ(ロシアで発達した暖炉の一種)は、壁面からの放射熱で暖を取るため、周囲の大便も溶け出し、臭いが漂った。

 45年6月、ソ連の侵攻に備え、奉天に移動した。そこで対戦車壕(落とし穴)を掘って過ごしているうち、終戦を迎えた。

 終戦後1カ月ほどとどまったが、大連へ移動して日本に帰国するか、この地にとどまって働くか迫られた。隊はここで解散。仲間たちはそれぞれの判断で行動した。

 帰国を決め、切符も入手したが、汽車は屋根の上にも乗客がいるほどの混雑ぶり。燃料として積み込まれた石炭の上に乗せられ、すすまみれになって大連にたどり着いた。

 しかし、日本に向かう船はない。日本人が経営する会社で働きながら、帰国できる時を待った。47年1月に大連港を出港し、長崎県の佐世保港へたどり着いた。上陸時には全身を消毒され、ようやく故郷に帰ることができた。

 「国のため少年時代をささげたが、国からもらったのは引揚者国庫債券(数年間に分割して現金償還される交付公債)ぐらい」。保管している債券には「七千円」と記されている。

 今は畑仕事をしながらのんびり暮らす。市街地へ1時間以上の通院も自身で車を運転する。「不幸な少年時代を過ごしたが、令和元年を健康に迎えられたのは運がある」と笑った。
(この連載は中井智一、喜田義人が担当しました)