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2024年12月22日(日)

語り継ぐ記憶(4)食べ盛りに食糧難/楠本誠(くすもとまこと)さん(89)田辺市南新町

語り継ぐ記憶・楠本誠
語り継ぐ記憶・楠本誠
 田辺市南新町の楠本誠さん(89)の少年時代は、戦時下の暮らしと共にある。1941年12月、小学6年生の時に朝礼で太平洋戦争の開戦を知らされた。2年生の時に日中戦争も始まっていたが「当時は戦争と言ってもピンとこなかった」。裕福ではないが、変わらない日常生活があった。

 それが太平洋戦争と共に、食糧難という形で子どもたちを直撃する。「お菓子が欲しいなんて言ったら、げんこつが飛んできた時代」。代用品はいったソラマメや大豆で、いつも空腹を抱えていた。「食べ盛りにこれほどつらいことはない」と振り返る。

 学校にも変化があった。運動会では「フレー、フレー」の応援が禁止。語源が英語のためだ。一方で「敵を知るために必要」と英語教育には力を入れていた。

 小学校卒業後に進学した商業学校は1年で工業学校に転換させられた。工業の方が求められたためだ。45年3月、勤労動員で同市上の山にあった軍需工場に配属され、船舶用のシリンダーを作った。

 このころには町内会からの割り当てで、たびたび軍事用の防空壕(ごう)掘りにも動員された。抽選に当たった1、2人が行くのだが「よく当たった」。作業は市内だけでなく、御坊市まで出向くこともあった。つるはしやのみを持っての手作業でとにかく時間がかかった。

 田辺にも直接的な戦禍が及んだ。6月には市内の鉄道近くに爆弾が数個落とされた。市外で防空壕を掘っていたため、被害は免れたが、帰宅途中に県道のど真ん中に大きな穴が開いているのを目撃した。近所の田畑で遊んでいた弟は銃弾を拾い集めていた。そのうちの一つをもらい、今も所持している。

 平時なら田辺祭が営まれていた7月24、25の両日には艦載機による空襲があった。この時は軍需工場にいたが、標的からは外れていたのか、まったくの無傷だった。「でも、目立つ工場だった。あと1~2カ月戦争が続いていたらどうだったか」

 終戦を迎えても、食糧がない状況は変わらなかった。「父は終戦間近に戦死。私の下には弟2人と妹1人がいた。家族を支えた母の大変さは、大人になって実感した。それなのに優しい言葉を掛けることができなかった」と今も後悔している。

 終戦から74年目の夏。いまも田辺祭に携わる。90歳になっても裃(かみしも)姿で参加すると決めていたが、今年は腰を痛め参加できなかった。近くで見守ったが、「祭りがあると、今の平和を実感できる。これをずっと続けないといけない」と力を込めた。