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2024年12月23日(月)

語り継ぐ記憶(3)明石軍需工場に勤労動員/山﨑明美(やまさきあけみ)さん(90)/西川禮子(にしかわれいこ)さん(90)/田辺市末広町

勤労動員の思い出を話す山﨑明美さん(左)と西川禮子さん
勤労動員の思い出を話す山﨑明美さん(左)と西川禮子さん
 田辺市末広町の山﨑明美さん(90)と西川禮子さん(90)は2週間に1度、市の南部センターで開かれる編み物の自主サークルを楽しんでいる。

 何度か集まるうちに、二人は同い年で、親戚であることが分かった。でも一番驚いた共通点は勤労動員の体験だった。75年前、女学生だった二人は山﨑さんが田辺高等女学校、西川さんは新宮高等女学校と、学校は違うが、ともに兵庫県明石市の同じ軍需工場に動員されて働いていたことが分かった。

 その時、空襲で11人の女学生が犠牲になった。それを思い出すと、今も胸を締め付けられるような悲しい思いになるという。

 1944年8月、田辺高女の4年生だった山﨑さんは、同級生約150人とともに、川崎航空機工業明石工場に勤労動員で駆り出された。

 毎朝、もんぺ姿に「神風」の鉢巻きをして、寄宿舎「明徳寮」を出発。歌を合唱しながら工場まで行進した。げたがすり減って割れ、割れ目に足の裏が挟まれる痛みを辛抱しながら歩いたことが忘れられない。

 工場には各地から女学生が動員されており、全員で飛行機の部品を黙々と作った。

 悲しい出来事があったのは、45年1月19日。午後3時ごろ空襲警報が鳴り響き、山﨑さんは防空頭巾をかぶって近くの明石公園に避難した。米軍爆撃機B29が上空を飛び交い次々と爆弾を投下。その間、山の斜面に腹ばいになり、耳をふさぎ、鼓膜が破れないように口を少し開けて身動きせずに我慢した。しかし、この空襲で工場は炎上した。

 辺りが静まるのを待ち、寮に戻ると、同郷の田辺高等家政女学校の生徒11人が亡くなったと聞かされ、がくぜんとした。彼女らは工場内の防空壕(ごう)で亡くなっていた。「本当に気の毒でならなかった」と振り返る。

 田辺高女の生徒はその後、奈良市に移され、旅館から大阪の町工場に通って、明石と同様、飛行機の部品作りにいそしんだ。

 田辺市中辺路町近露出身の西川さんも、新宮高女に在籍中の44年8月に、同学年全員約120人とともに明石工場に派遣された。

 空襲で閉鎖後は、京都・山科にある紡績工場跡の軍需工場に移動し、終戦まで働いた。食べ物は、ご飯をほんの一口程度とダイコンの葉っぱを入れた塩汁だけ。「おなかはいつもぺこぺこだった」という。

 二人は「女学校入学の年に開戦し、高女時代は戦争一色で終わった。あのばかげた戦争は何だったのか。どれだけ多くの犠牲者が出たことか」と、いまも戦争の無意味さ、理不尽さを語る。