語り継ぐ記憶(1)長崎の被爆者宅で下宿/森川末男(もりかわすえお)さん(84)紀南幼稚園園長
田辺市下屋敷町の紀南幼稚園園長で紀南キリスト教会の協力牧師、森川末男さん(84)=上富田町南紀の台=は、長崎県島原市有明町の農家に生まれた。1945年8月9日、米軍が長崎市に原爆を投下した時のことを今も鮮明に記憶している。
その日は夏休みの登校日。小学5年生だった森川さんは学校から帰宅し、家畜にやる草刈りの準備中だった。
午前11時すぎ、家中の障子がガタガタと震え、落雷のような音が鳴り響いた。直線距離にして50キロほど離れた長崎市方面の空が暗い黄色に染まっているのを見て、大変なことが起きたと直感した。
6年後、被災地に建てられた長崎工業高校に入学。原爆の爪痕がまだあちこちに残っていた。下宿の場所は爆心地から約1キロ離れた丘の中腹。家主は夫を被爆で亡くしたおばさんで、娘2人ともども背中や腕に被爆の跡がケロイドになっていた。
原爆が投下された時、爆風で下宿の窓がすべて吹き飛び、おばさんは座ったまま20メートル近く飛ばされたという。
至る所で火の手が上がっていたその日の夕方、ぼうぜんと立ち尽くしていたおばさんに、もんぺを引きずった老人が水を求めてきた。ヤカンに入っていた茶をあげながらよく見ると、老人ではなく10代の女学生で、引きずっていたのは、焼けただれて剝がれかけた背中の皮だった。近所の人の話では、近くの川は死骸でいっぱいだったという。
戦争で夫を亡くし、自身や娘の身体に残った傷の恨みつらみを一度も口にしなかったおばさんだったが、この女学生に何もしてあげられなかったことは、当時の話をするたびに悔やんでいた。
森川さんはその後、20代前半でクリスチャンになった。牧師になって各地の教会に赴任したが、赴任先では必ずこの話を語り伝えた。
65年4月、紀南キリスト教会の牧師と紀南幼稚園の園長に就任してからも毎年8月、原爆の恐ろしさ、戦争のむごさを語り、平和の大切さについて講演している。
内容は毎年少しずつ変わるが、趣旨は変わらない。長崎の下宿先で聞いた戦争の恐ろしさを語り、聖書の一節「剣を鞘(さや)に納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びる」という言葉を引用し、平和の尊さを訴える。「力で相手をねじ伏せても平和は訪れない。愛と許しこそが本当の平和を築く」という言葉を付け加えることも欠かさない。
今年の講演会は4日午前10時半から、紀南キリスト教会で開く。
◇
終戦記念日を前に、戦争の体験者や平和の語り部に話を聞く連載「語り継ぐ記憶」を始めます。
その日は夏休みの登校日。小学5年生だった森川さんは学校から帰宅し、家畜にやる草刈りの準備中だった。
午前11時すぎ、家中の障子がガタガタと震え、落雷のような音が鳴り響いた。直線距離にして50キロほど離れた長崎市方面の空が暗い黄色に染まっているのを見て、大変なことが起きたと直感した。
6年後、被災地に建てられた長崎工業高校に入学。原爆の爪痕がまだあちこちに残っていた。下宿の場所は爆心地から約1キロ離れた丘の中腹。家主は夫を被爆で亡くしたおばさんで、娘2人ともども背中や腕に被爆の跡がケロイドになっていた。
原爆が投下された時、爆風で下宿の窓がすべて吹き飛び、おばさんは座ったまま20メートル近く飛ばされたという。
至る所で火の手が上がっていたその日の夕方、ぼうぜんと立ち尽くしていたおばさんに、もんぺを引きずった老人が水を求めてきた。ヤカンに入っていた茶をあげながらよく見ると、老人ではなく10代の女学生で、引きずっていたのは、焼けただれて剝がれかけた背中の皮だった。近所の人の話では、近くの川は死骸でいっぱいだったという。
戦争で夫を亡くし、自身や娘の身体に残った傷の恨みつらみを一度も口にしなかったおばさんだったが、この女学生に何もしてあげられなかったことは、当時の話をするたびに悔やんでいた。
森川さんはその後、20代前半でクリスチャンになった。牧師になって各地の教会に赴任したが、赴任先では必ずこの話を語り伝えた。
65年4月、紀南キリスト教会の牧師と紀南幼稚園の園長に就任してからも毎年8月、原爆の恐ろしさ、戦争のむごさを語り、平和の大切さについて講演している。
内容は毎年少しずつ変わるが、趣旨は変わらない。長崎の下宿先で聞いた戦争の恐ろしさを語り、聖書の一節「剣を鞘(さや)に納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びる」という言葉を引用し、平和の尊さを訴える。「力で相手をねじ伏せても平和は訪れない。愛と許しこそが本当の平和を築く」という言葉を付け加えることも欠かさない。
今年の講演会は4日午前10時半から、紀南キリスト教会で開く。
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終戦記念日を前に、戦争の体験者や平和の語り部に話を聞く連載「語り継ぐ記憶」を始めます。