古道沿い富田川に木組み施設 かつての船着き場跡か、劣化進む、和歌山県田辺市
和歌山県田辺市鮎川の熊野古道沿いの富田川に、古い木組みの施設が姿を現している。2011年の紀伊半島大水害で露出したと考えられている。この施設を確認した男性によると、かつての船着き場跡ではないかといい、「ここ数年で傷んできている。何とか保護できないものか」と話している。
確認したのは上富田町の「口熊野かみとんだガイドの会」会長の裏地好晴さん(83)。アユ釣りをしていて気付いた。水害前は見られなかったという。
木材と石材しか使っていないことや地元で存在が知られていないことなどから、明治以前に造られたとみている。
一般的に護岸工事の基礎部分(胴木)には、水に強いマツが使われることが多いが、この施設は建材に用いられるヒノキが使われている。さらに人が行き来できるぐらいの踊り場(幅3~4メートル)らしき部分が残っていることなどから、船着き場の可能性が高いと指摘する。
近くには、後白河法皇が熊野御幸で仮泊した御所があったと伝わる「御所平」と呼ばれる所があり、少し上流には川舟から荷物をつり上げたと伝わる「つりあげ」という地名が残る。
現在残っている木組みは長さ約23メートル。横木は川に沿って長さ約3メートル(直径約18センチ)のものを組み合わせてつないでいる。控えぐい(直径約23センチ)は長さ約2メートル。控えぐいの先端にはほぞ穴(約12センチ×約15センチ)が開けられており、建造物があったことがうかがえる。
裏地さんは「数年前までは、まだ5、6メートルほど長く存在していた。地形から推測してかつては50メートル近い長さがあったのではないか。1889(明治22)年の明治大水害で埋まった可能性があり、埋まったことで良好な状態で残った」と推測している。
確認したのは上富田町の「口熊野かみとんだガイドの会」会長の裏地好晴さん(83)。アユ釣りをしていて気付いた。水害前は見られなかったという。
木材と石材しか使っていないことや地元で存在が知られていないことなどから、明治以前に造られたとみている。
一般的に護岸工事の基礎部分(胴木)には、水に強いマツが使われることが多いが、この施設は建材に用いられるヒノキが使われている。さらに人が行き来できるぐらいの踊り場(幅3~4メートル)らしき部分が残っていることなどから、船着き場の可能性が高いと指摘する。
近くには、後白河法皇が熊野御幸で仮泊した御所があったと伝わる「御所平」と呼ばれる所があり、少し上流には川舟から荷物をつり上げたと伝わる「つりあげ」という地名が残る。
現在残っている木組みは長さ約23メートル。横木は川に沿って長さ約3メートル(直径約18センチ)のものを組み合わせてつないでいる。控えぐい(直径約23センチ)は長さ約2メートル。控えぐいの先端にはほぞ穴(約12センチ×約15センチ)が開けられており、建造物があったことがうかがえる。
裏地さんは「数年前までは、まだ5、6メートルほど長く存在していた。地形から推測してかつては50メートル近い長さがあったのではないか。1889(明治22)年の明治大水害で埋まった可能性があり、埋まったことで良好な状態で残った」と推測している。