和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年12月28日(土)

謎多い「忍定」とは 江戸時代の木食行者、紀伊半島で足跡たどるツアー

忍定の石碑を観察する参加者(和歌山県古座川町大桑で)
忍定の石碑を観察する参加者(和歌山県古座川町大桑で)
 地元の観光資源を再発見し、紹介している団体「紀伊半島ファン2(ファンファン)推進委員会」(和歌山県串本町中湊)はこのほど、古座川町で木食行者「忍定」について学ぶツアーを開いた。町内外から15人が参加し、専門家から話を聞いたり、現地見学をしたりして、謎の多い忍定の人物像に迫った。


 忍定は、神奈川県伊勢原市の浄発願寺「弾誓派」の行者で、木の実のみを食べる「木食行」をしながら1818~31年にかけて熊野地方で活動した。

 ツアーは、忍定の足跡をたどろうと昨年10月から計4回の予定で開き、三重県紀宝町や那智勝浦町、新宮市で実施。今回が最終回で、熊野古道や周辺地域でツアーの企画・運営などを手がける「くまの体験企画」(三重県尾鷲市)の内山裕紀子代表らが講師を務めた。

 内山代表は2010年に紀宝町で「忍定」の文字が彫られた石仏を発見。その後、熊野地方各地の石仏や石塔などを調べたほか、新潟県佐渡島や神奈川県、長野県にも訪れ、10年以上忍定について調べてきた。

 この日は古座川町小川の町小川総合センターで座学があり、内山代表がこれまでの研究の成果を報告。忍定は、神仏を信仰していた古座川町大桑の資産家「伊東家」当主、伊東吉左衛門に招かれた、あるいは頼って熊野に入ったとされていると説明した。

 鉱山近くの岩屋で木食行をしながら、江戸時代の鉱山の劣悪な環境で働く人の安全と、亡くなった人の鎮魂のために念仏を唱えたという。

 木食行で命の限界が近づき、大桑に戻って伊東家に入定のための石室や木棺の世話を頼み、土中入定したのではないかという。入定することで仏となり、身をもって苦しむ人々を救済しようとした。大桑にある石碑は「入定墓」と考えられている。

 内山代表は「忍定は地域で『お上人様』と呼ばれて、人々のために生き、祈り続けて亡くなった。地域の人の心のよりどころや支えだったに違いない」と結論づけた。

 その後、大桑で現地見学をした。串本、古座川町などでガイドをしている神保圭志さんや、大桑に長年住んでいた瀧口定延さんが案内した。参加者は「南無阿弥陀佛 忍定」と書かれた石碑を写真撮影するなど、興味深く観察していた。瀧口さんによると、町道脇に立つ石碑は、かつて大桑から山手につながる「尾添谷」の峠にあったものを、青年クラブの事務所があった今の場所に移したのだという。

 見学では石碑近くの伊東家屋敷跡や小学校跡、大滝などにも立ち寄った。

 内山代表は「当たり前に見ていたものに、隠されたエピソードがあったりする。気づきが大事。このツアーをきっかけに地域の再発見につながれば」と話した。