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全国に「田辺高」の名響かせて 76年ぶりセンバツ出場で当時生徒の93歳が期待

1947年当時の旧制田辺中学校の野球部員。全国大会優勝校などを招いて練習試合をしていたという(47年7月、和歌山県の田辺中学校校庭で)=同窓会誌「牟婁の海」から
1947年当時の旧制田辺中学校の野球部員。全国大会優勝校などを招いて練習試合をしていたという(47年7月、和歌山県の田辺中学校校庭で)=同窓会誌「牟婁の海」から
同窓会誌「牟婁の海」「光陰」を持つ矢倉優さん
同窓会誌「牟婁の海」「光陰」を持つ矢倉優さん
春のセンバツ 田辺の成績
春のセンバツ 田辺の成績
 春の選抜高校野球大会に21世紀枠で出場する和歌山県の田辺高校は、旧制中学校時代の1947年と、現校名になった48年に2年連続で選抜大会に出場している。当時在学していた矢倉優さん(93)=田辺市新万=は「当時のメンバーの多くが亡くなっているが、生きていたら喜んだだろう」と76年ぶりの出場を喜んでいる。

 矢倉さんは旧制田辺中学校の第50回生で、田辺高校の第1回生でもある。田辺が2年連続で選抜大会に出場した時には、いずれも生徒会の役員として野球部を支えた。

 47年は田辺中の開校50周年で初の甲子園出場を決めた。選抜大会には26校が出場し、田辺は1回戦で富田中(三重県)に22―2で大勝、2回戦で城東中(高知県)に3―4で敗れた。

 翌年の大会は学制改革で高校になって初の大会となり、16校が出場。田辺は1回戦で岐阜商に14―2で勝ち、準々決勝で優勝した京都一商に2―4で敗れた。

 当時の野球部の監督は栗山周次郎さん。やんちゃな集団だった部員をうまくまとめ「おじやん」の愛称で親しまれた。スタメンは2大会ともほぼ同じメンバーで、後にプロ野球に進んだ選手が複数いた。矢倉さんの親友だった二塁手の恵中隆さんは松竹(後に大洋と合併)へ、遊撃手の南温平さんは巨人へ。外野手の岩本堯さんは巨人や大洋で活躍した。

 その時代ならではのエピソードも。恵中さんが47年の大会直前で骨折したため、栗山監督が体操部の寺本哲治さんをスカウト。寺本さんは野球経験がなかったが1カ月の練習で甲子園に二塁手として出場し、初戦で3安打を放った。寺本さんはそれから本格的に野球を始め、巨人に入団した。

 甲子園出場の裏側には、マネジャーの男子生徒7人の奮闘もあった。紀北の強豪校を打倒するために県外のチームとの練習試合を取り付けるなどしてチームの成長に貢献した。甲子園出場が決まれば、資金集めに奔走。戦後で衣食住に事欠く中、米や布団など必要な物資も集めた。

 矢倉さんは第50回生でつくる「五十会」の同窓会誌「牟婁の海」(1999年発行)「光陰」(2004年発行)の編集責任者を務めた。この2誌には、当時の野球部員たちが部活動や甲子園での思い出をつづっている。

 当時の田辺中(田辺高)は野球部と全校生徒が固く団結し、地域も含めて一丸となって応援した。2大会とも甲子園で勝利を収め、田辺の名が全国に響いたという。

 今回の選抜大会で田辺は、出場32校の中で最長のブランクとなる76年ぶりの出場となる。矢倉さんは「あの時と同様、甲子園で勝って全国に知ってもらうことを切に願っている」と、活躍を期待している。


 「和歌山県中等学校高等学校野球史」(県高校野球連盟発行)などによると、1947年、48年当時の田辺中(田辺高)野球部の主なメンバーは次の皆さん。

 監督=栗山周次郎

 投手=寺本孝

 捕手=辻原正道

 内野手=恵中隆、柏木多美男、南温平、南薫、中田唯夫、寺本哲治

 外野手=岩本堯、金田由紀穂、嶋雅行

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