和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年11月15日(金)

「校歌制定の冊子」復刻 田辺市長野中、元教諭の吹揚さん

田辺市長野中学校の校歌の由来についてまとめた「長野中学校校歌の制定」の復刻版と吹揚克之さん。手前は校歌の楽譜のコピー(田辺市あけぼので)
田辺市長野中学校の校歌の由来についてまとめた「長野中学校校歌の制定」の復刻版と吹揚克之さん。手前は校歌の楽譜のコピー(田辺市あけぼので)
 元小中学校教諭の吹揚克之さん(78)=田辺市あけぼの=が、2015年に閉校した田辺市長野中学校の校歌が作られた経緯を自ら調べ、1992年にまとめた冊子「長野中学校校歌の制定」の復刻版を製作した。「全国的に著名な人が校歌の制作に関わっていた歴史や校歌そのものを埋もれさせてしまうのは惜しいと思った」と話している。


 長野中の校歌は53年に作られた。作詞は、長野県出身で旧制広島文理科大学(現広島大学)学長を務め、被爆者の手記をまとめた「原爆の子」の編集でも知られる長田新氏(1887~1961)。作曲は大阪市出身の作曲家、音楽学者の信時潔氏(1887~1965)。

 当時、長野中の校長だった細尾栄一氏が、田辺市伏菟野出身の玉置孝氏に作詞を依頼した。玉置氏は旧制和歌山師範学校(現和歌山大学)を経て教職に就いたが、その後改めて広島文理科大学に入学。学生だった玉置氏が書いたとみられる歌詞を長田氏が添削し、「長田新」の名前で細尾校長に届けられていたことが吹揚さんの調べで分かった。

 歌詞に長田氏が好きな「世界の友」「平和讃えん」の言葉が使われている。吹揚さんは「長田氏が作詞する時の傾向を知り尽くしていた玉置氏が、こういう言葉を使ったのでは」と話す。

 一方、細尾校長は作曲を田辺市秋津町出身の画家・楠本龍仙氏を通じて信時氏に依頼した。楠本氏は信時氏と東京での下宿が同じで懇意にしていた。また、信時氏は楠本氏の紹介で田辺市栄町出身の洋画家・原勝四郎氏とも懇意にしていたという。

 吹揚さんは28年前、長野中の沿革史を基にこれら経緯を関係者から聞き取り調査し、楽譜とともに冊子にまとめて関係者に配布していた。

 復刻版はA4判10ページ。300部作った。少し残っているため、田辺市湊の「あおい書店」で実費で頒布している。吹揚さんが長野中の教員だったころの同僚で、当時音楽担当だった真砂等さんがピアノで弾いた校歌を収録したCDも作っている。