和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2025年02月22日(土)

扇面に熊楠の都々逸 和歌山県白浜の記念館へ寄贈、岡山県の所蔵者

寄贈された「川島草堂画 南方熊楠賛 黒いもり扇面」
寄贈された「川島草堂画 南方熊楠賛 黒いもり扇面」
 和歌山県白浜町の南方熊楠記念館は、熊楠が都々逸(どどいつ)を記した扇面(せんめん)など新資料の寄贈を受けたと発表した。熊楠と親交のあった岡山県倉敷市出身の植物学者、宇野確雄(1895~1984)の自宅で保管されていた。記念館は「非常に貴重な資料」と話している。3月中旬の一般公開を予定している。


 岡山県に住む宇野の子孫が寄贈した。熊楠の日記などによると、扇面は1920(大正9)年8月26日、熊楠が高野山で宇野に贈った。大きさは縦約22センチ、横約50センチ。もともと扇子だったが、子孫が軸装している。この扇面の存在は以前から知られていた。

 扇面には、熊楠の友人だった田辺市生まれの画家、川島草堂(1880~1940)が黒と赤の墨で黒いイモリを2匹描いており、その横に熊楠が「黒やきに なるたけ 思ひを こがして見ても 佐渡の土ほど きかぬもの 熊楠」と都々逸を書いている。

 記念館によると、かつてイモリの黒焼きは媚薬(びやく)、佐渡の赤土は止血剤として使われていたが、どちらも効果がないことから「黒焼きになるまで思い焦がれても、思いだけでは何の効果もない」との意味と思われる。

 1911(明治44)年の「和歌山新報」に同じ都々逸が投稿されていることなどから、即興ではない。

 熊楠の日記によると、熊楠は宇野ら植物研究仲間とと一緒に高野山で植物採集をした。宇野らが先に下山する際、川島に扇子に絵を描かせ、宇野のほか、小畔四郎と坂口総一朗にも同様の扇子を与えたという。小畔と坂口が受け取った扇子はまだ発見されていない。

 また、熊楠らが高野山へ登った時に撮影した写真6枚(複製)も今回、扇面と一緒に寄贈された。

 記念館の三村宜敬学芸員(42)は「熊楠はこの都々逸を非常に気に入っていて、自慢していた。今回寄贈された資料などから、熊楠は高野山を非常に楽しんだ様子がうかがえる」と話している。