軍艦遭難者を診た医師の記録 日本とトルコ友好のきっかけ、無量寺が和歌山・串本町へ
和歌山県串本町串本の無量寺は、同寺が保管しているトルコ軍艦エルトゥールル号の乗組員を診断した医師の診断書の「写し」などを串本町に寄贈する。16日、同町樫野のトルコ軍艦遭難慰霊碑前で営まれる追悼式典の場で引き渡される。
エ号は1890年9月16日夜、台風に遭遇し同町樫野の「船甲羅(ふなごうら)」と呼ばれる岩礁に衝突。多数の乗組員が犠牲となったが、紀伊大島の島民が救助に尽力し、69人が助かった。このことが日本とトルコが強い友好関係で結ばれるきっかけになった。
「写し」には、69人のうち35人の名前や病名、原因、症状、治療方法が残っている。乗組員のベキタウス(当時27)は、船の木片がぶつかったとみられ「右大腿内部内転筋直上部ニ於テ幅二三寸深サ筋莫ニ達スル失肉創アリテ炭黒色ヲ呈セリ」(原文のまま)と書かれている。
この中には、治療をした3人の医師が県書記官の秋山恕卿氏に宛てた報告書のようなものもあった。
その書類には、当時の海軍省の派遣で21日に大島港に到着した日本軍艦「八重山」の艦長に本来の診断書を手渡したこと▽「薬代や治療代の精算書を作成して届けよ」という通達を受け取ったこと▽もともと費用を請求する気持ちはなく、痛ましい遭難者を心から気の毒に思った救助いちずの人道主義的精神に過ぎないこと▽薬代や治療代は義援したいこと―が記されている。
1997年に「写し」が同寺の金庫に保管されているのを当時の総代らが見つけた。
寺によると、治療をした医師の一人・伊達一郎氏のおいの淺利久治氏が、1930年に旧下里町粉白(現在の那智勝浦町粉白)にある母の生家で発見した。淺利氏は串本町に住んでいたことがあり、寺の檀家(だんか)だったため、その縁で寄贈したのではないかとみられている。
金庫内には、義援金を贈ろうとトルコに渡った山田寅次郎氏が淺利氏に送った手紙や、淺利氏が診断書の写しを解読して再度書き直したものも残っていた。
一部でカビが発生しており、町は、県の専門職員から保管方法の指導を受けた上で展示するとしている。
東谷洞雲住職(53)は「医師たちの心は私たちが受け継ぐべきもの。トルコとの友好を深めるきっかけになった価値ある資料を金庫に眠らせておくのはもったいない。多くの人に見てもらえるようにしていただけたら」と話している。
追悼式典は午後2~3時に開かれる。コルクット・ギュンゲン駐日トルコ特命全権大使が参列する予定。礼拝や追悼歌の斉唱などがある。
エ号は1890年9月16日夜、台風に遭遇し同町樫野の「船甲羅(ふなごうら)」と呼ばれる岩礁に衝突。多数の乗組員が犠牲となったが、紀伊大島の島民が救助に尽力し、69人が助かった。このことが日本とトルコが強い友好関係で結ばれるきっかけになった。
「写し」には、69人のうち35人の名前や病名、原因、症状、治療方法が残っている。乗組員のベキタウス(当時27)は、船の木片がぶつかったとみられ「右大腿内部内転筋直上部ニ於テ幅二三寸深サ筋莫ニ達スル失肉創アリテ炭黒色ヲ呈セリ」(原文のまま)と書かれている。
この中には、治療をした3人の医師が県書記官の秋山恕卿氏に宛てた報告書のようなものもあった。
その書類には、当時の海軍省の派遣で21日に大島港に到着した日本軍艦「八重山」の艦長に本来の診断書を手渡したこと▽「薬代や治療代の精算書を作成して届けよ」という通達を受け取ったこと▽もともと費用を請求する気持ちはなく、痛ましい遭難者を心から気の毒に思った救助いちずの人道主義的精神に過ぎないこと▽薬代や治療代は義援したいこと―が記されている。
1997年に「写し」が同寺の金庫に保管されているのを当時の総代らが見つけた。
寺によると、治療をした医師の一人・伊達一郎氏のおいの淺利久治氏が、1930年に旧下里町粉白(現在の那智勝浦町粉白)にある母の生家で発見した。淺利氏は串本町に住んでいたことがあり、寺の檀家(だんか)だったため、その縁で寄贈したのではないかとみられている。
金庫内には、義援金を贈ろうとトルコに渡った山田寅次郎氏が淺利氏に送った手紙や、淺利氏が診断書の写しを解読して再度書き直したものも残っていた。
一部でカビが発生しており、町は、県の専門職員から保管方法の指導を受けた上で展示するとしている。
東谷洞雲住職(53)は「医師たちの心は私たちが受け継ぐべきもの。トルコとの友好を深めるきっかけになった価値ある資料を金庫に眠らせておくのはもったいない。多くの人に見てもらえるようにしていただけたら」と話している。
追悼式典は午後2~3時に開かれる。コルクット・ギュンゲン駐日トルコ特命全権大使が参列する予定。礼拝や追悼歌の斉唱などがある。