和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年05月01日(水)

東日本大震災から10年/故郷、福島を思う/龍神村 竹工芸作家の菅野さん

写真を見て当時を振り返る菅野明彦さん(田辺市龍神村西で)
写真を見て当時を振り返る菅野明彦さん(田辺市龍神村西で)
東日本大震災の約1カ月半後、菅野明彦さんが岩手と宮城の県境付近で撮影したという写真
東日本大震災の約1カ月半後、菅野明彦さんが岩手と宮城の県境付近で撮影したという写真
 東日本大震災から11日で10年がたつ。福島市出身で田辺市龍神村西に住む竹工芸作家の菅野明彦さん(60)は、震災の翌月に被災地を訪ね故郷の惨状を目の当たりにした。以後、毎年のように東北に足を運んで復興の様子を見守り、将来への希望も感じているが、東京電力福島第1原発の事故に関しては、帰還困難区域に出ている避難指示が解除されるのはまだまだ先だと表情を曇らせる。


 菅野さんは、高校まで実家で暮らして大学進学のために福島市を離れた。卒業後は京都市などに住んでいたが、1994年に知人がいる龍神村に移り住んだ。

 大震災発生当日は、龍神村にある作業場で作品作りに取り組んでいた。聞いていたラジオで大地震の発生を知り、実家に電話をかけたところ、家族は無事と判明。弟とは連絡が取れなかったが、数日して無事が確認できた。

 次々と飛び込んでくる震災関連のニュースに触れるたび「何か力になれることはないだろうか」との思いが日増しに募り、現地に行きたい気持ちを抑えられずにいた。そんな時、東北に知り合いがいる田辺市内やその周辺町に住む知人らに頼まれ、食料や古着などの物資を届ける役目を引き受けることになり、地震発生から約1カ月半後に自家用車で実家に向けて出発した。

 約16時間かけて到着した実家は幸いにも被害が軽微だった。2、3日して三陸海岸を岩手県宮古市まで走り、各地の様子を撮影して記録した。海沿いはどこも、津波で壊滅状態だった。

 「家も何もかも流されたまちを目の当たりにした。テレビで見た光景ではあったが、現場に立つと、ヘドロのような何ともいえない臭気が鼻についた。想像をはるかに超える自然の力を感じた」と振り返る。

 いったん実家に戻った後、原発事故の影響についても心配が増してきた。車で福島県内を走り回り、4月26日に飯館村に入った。村は計画的避難区域の対象となっていたが、当時はまだ人が居た。

 この日は1986年に旧ソ連のチェルノブイリ原発事故があった日であり、自身の誕生日でもあったという菅野さんは「放射線量が高くて入ることができない地域もあった。行くことができた地域は、地震の被害は少なくて野や畑がそのまま広がる平穏な光景だった。津波の被害を大きく受けた海岸の地域とは大きな隔たりを感じた」と話す。

 この10年間、毎年のように福島を訪れたり、保養のため福島の子どもたちを紀南に招待するキャンプに有志の人と関わったりしてきた菅野さんは「津波の被害からは年々復興して町づくりができ、将来がある程度は見えると思う。しかし、原発事故の処理は長い間混迷したまま。原発事故の被害者である福島県民が、避難の受け入れを拒否されたケースもある」と憂う。

 菅野さんは龍神村に暮らしながら「福島から遠く離れた所に住んでいるが、これからも福島とずっと関わっていきたい」と話し、作業場に地震のあった時刻を指した時計を置いて、あの日のことを忘れず、そして、これからのことを考えていくようにしている。