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回顧録で知った戦争 父の遺品で木下さん、和歌山県白浜町

父・徳一さんの遺した「従軍回顧録」や写真を手に取る木下滋さん(和歌山県白浜町堅田で)
父・徳一さんの遺した「従軍回顧録」や写真を手に取る木下滋さん(和歌山県白浜町堅田で)
 和歌山県白浜町堅田の木下滋さん(77)の父、故・徳一さんは戦時中、通信兵として満州(現在の中国東北地方)に出征していた。滋さんは徳一さんから戦争の話をほとんど聞いたことがない。死後に手書きの「従軍回顧録」を発見し、戦時中の思いを知った。


 徳一さんは1916(大正5)年生まれ、かつらぎ町出身。回顧録は1975(昭和50)年に執筆を始め、亡くなる80(昭和55)年まで5冊にわたって書き続けている。

 1937(昭和12)年1月9日、「明日より全く違った生活に入る」「不安と緊張で顔は蒼白(そうはく)」と入隊の不安を率直につづっている。

 軍隊の生活は理不尽だった。例えば軍靴の点検。靴の裏に砂1粒でもついていたら、たちまちビンタが飛ぶ。「それだけならまだよいが、その靴の裏をなめさせられる。嫌な顔でもすれば、その靴でまたビンタ」。若い兵隊が力の限り打つので、班内にはあちこちで失神する者が出た。

 そんな中、脱走者が出た。捜索の指令が出る。この時、班のみんなは心のうちで「小躍りした」とある。隊の外に出られるからだ。「どうか見つからないようにと神に念じた。そうすれば、明日も街に出られる」。ただ、当時国内での脱走は「100%無理」だったと記している。

 戦闘の描写もある。満州で夜間に襲撃を受けたが、なんとかしのいだ。「一刻、一刻が本当に長く感じられた。しかし、敵が後退しているのが暗闇を介して分かる。全身が耳で、針1本倒れる音でも察知できた」と緊張感が伝わる。

 「ソ連と満州の国境を侵略した、しないで対立になったが、こんな草木の一本もない見渡す限りの砂原を侵入されたとしても、痛し痒し程度のものではないか。その裏には国の目的があるのだろうが、現実としてこんなところで戦死するのは馬鹿(ばか)らしい」の言葉には実感がこもっている。

 滋さんは「きちょうめんで、文章を書くのが好きだった父らしい。写真も残しており、どこかで保存してもらえればうれしい」と話している。

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