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語り継ぐ記憶(6)/愛須 雅子(あいす つねこ)さん(91)/田辺市上秋津/机に隠れた機銃掃射

愛須雅子さん
愛須雅子さん
 1945(昭和20)年に田辺高等女学校に入学した。戦況は厳しさを増しており、1学期の学校に華やかな青春はなかった。

 4、5年生の先輩は勤労動員で工場などで働いており、3年生以下も出征した農家の梅畑や田んぼで作業をした。女学校は現在の東陽中学校(田辺市神子浜1丁目)にあったが、「万呂までくわを担いで歩いた」と振り返る。

 空襲もたびたびあった。今は住宅地となっている学校の裏山は一面の梅畑。空襲警報があると、梅の木の根元に避難した。

 突然の空襲警報で、教室から逃げ遅れたことがあった。机の下に隠れたが「バリバリ」と機銃掃射が間近に迫っているのを感じた。「ヒュンヒュン」と弾丸が飛ぶ音がすぐそばで聞こえた。

 幸い無事だったが、音楽室の天井は銃撃で穴だらけになっていた。「空襲は本当に怖かった。田辺には爆弾も落とされている。離れていても衝撃はすごかった」と振り返る。

 8月15日、重大な知らせがあるというので放送に耳を傾けた。聞き取りにくかったが、戦争が終わったことは分かった。「夜に電灯をつけても大丈夫。そんなことが幸せだった」

 戦後も食糧難は続いたが、日常生活が戻り、学校で学べる毎日に平和を感じた。ただ、満州に渡っていた父の帰国はかなわなかった。「母には女性1人でも生きていく力を付けることが大事」と言い聞かされた。

 学校生活は戦争に翻弄(ほんろう)されてきた。尋常小学校に入学し、卒業時は国民学校になっていた。田辺高等女学校も卒業時は戦後の学制改革で、田辺高等女学校併設中学校となった。

 戦後の高校生活は楽しかった。「生徒を否定せず、共感して導いてくれる先生とも出会えた。私もそんな先生になりたい」と教員を志した。

 教員生活は先輩にも教え子にも恵まれた幸せな時間だったと振り返る。「もっとも、私は田辺第二小学校で一番怖い先生と言われていたので、理想の教師になれたかは分かりませんけどね」と笑った。
=おわり
(この連載は喜田義人、湯川優史が担当しました)

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