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語り継ぐ記憶(1)/山田 敏子(やまだ としこ)さん(87)/上富田町生馬/兄の苦難知ってほしい

山田敏子さん
山田敏子さん
 終戦から78年目の夏。戦後生まれが8割を超え、戦争を知る体験者は減り続けている。戦争の悲惨さを共有し、平和へ思いをはせるため、体験者の「語り継ぐ記憶」を連載する。


 一回り年の離れた兄の浅田政男さん(享年78)は満州で終戦を迎え、シベリアに1年半抑留された。その経験を「シベリヤ抑留体験記」として記している。「世界で戦争が続く中、多くの人に兄の苦難を知ってほしい」と話す。

 体験記によると、浅田さんはソ連兵から「お前たちはダモイ(帰還)するのだ」とだまされ、列車に詰め込まれた。到着したのはシベリア南部のチタ市。1945(昭和20)年10月8日のことだった。すでに相当寒く、水回りには厚い氷が張っていた。

 収容所の住居は原始的な木造。毛布もわら布団もなく、着たきりのまま木の寝台で寝起きした。

 1日分の食事は黒パン500グラム、砂糖9グラム、生の塩魚60グラム、ほとんど具材の入っていないスープ4合。黒パンは3食分に分け、塩魚は焼くことができないため、生でかじりついた。空腹に耐えられず、馬に餌として与えたパンくずをむさぼり食べたこともあった。

 収容所では栄養失調で次々死者が出た。就寝前、毎晩のように故郷の話や帰国への希望を語り合うが、翌朝になると友は亡くなっている。そんな日々が続いた。

 12月から1月は60年ぶりの寒波で、温度計は零下55度前後を推移。凍傷にかかり手足を切断した者が少なくなかった。零下60度に近づくと、足踏みをしていないと立っていられない。思考力が低下し、鼻や耳、頬も凍傷になる。ぬれたタオルは1分もしないうちに棒のように凍った。

 46(昭和21)年12月24日、帰国が決まった。京都の舞鶴港に帰還したのは47年5月。5年ぶりの家族との再会を楽しみに、白浜町日置の実家に帰った。父はすでに亡くなっていた。

 「父を10歳で、母を20歳で亡くした私にとって、兄は父親代わりだった。亡くなる直前、ゆっくり話したいと言ってくれたが、がんが進行し、思いはかなわなかった。そのことを今も悔やんでいる」と体験記をにぎりしめる。

 俳句が趣味。兄が亡くなった日、こんな句を詠んだ。「シベリアの 厳冬兄の シベリア記」

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