和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年12月19日(木)

津波記念碑3基を文化財指定 すさみ町、防災の教訓に

国道42号沿いに立つ谷三郎左衛門を顕彰する碑(和歌山県すさみ町周参見で)
国道42号沿いに立つ谷三郎左衛門を顕彰する碑(和歌山県すさみ町周参見で)
 近い将来、南海トラフ巨大地震の発生が予想される中、和歌山県すさみ町は宝永や安政、昭和の地震で先人が残した教訓に学び、地域住民の防災意識を高めるための記念碑3基を町文化財に指定した。町文化財審議会委員長の小倉重起さん(82)は「知らない町民も多い。これを機に知ってもらい、大地震に備えてほしい」と話している。

 指定した地震災害に関する碑はいずれも同町周参見に建てられている、王子神社裏山の大日山にある「為後鑑(のちのためのかがみ)」碑と国道42号沿いに立つ「故志士谷三郎左衛門氏記念碑」、万福寺の境内にある「津波乃碑」の3基。

 為後鑑は安政地震後の1857(安政4)年に山崎地区の住民が建てた。高さ約90センチ、幅約48センチ、奥行き約17センチ。津波が襲来する前に大日山に避難して難を逃れられたのは、頂上に祭られている大日如来の擁護と住民の信仰のおかげなど―と刻まれている。1979(昭和54)年に大日如来堂が再建された時の趣意書によると、山崎地区ではかつて、大日講の餅投げの餅を頂上に運ぶ際、区長が先頭に立って小太鼓を鳴らし、後に続く住民は「おう、おう」と声を上げたという。夜間の津波に備え、太鼓と掛け声を頼りに頂上まで登る避難訓練でもあったと考えられている。

 庄屋の谷三郎左衛門らは宝永地震の津波被害を受け、浪避(なみよけ)堤防の建設を計画。三郎左衛門は藩に収める米を転売して建設費に充てた。1718(享保3)年に延長455メートル、高さ1・8メートル、幅3・6メートルの堤防を築造。完成後に公金横領の嫌疑を掛けられ、三郎左衛門は出頭を命じられたが、高野山に出家した。地元ではこの日(享保4年1月5日)を命日として墓碑を建てた。安政地震では堤防のおかげで他の地域より被害は極めて少なかったという。

 1927(昭和2)年に地元有志が三郎左衛門を顕彰しようと碑(高さ約2メートル、幅約1・2メートル、奥行き約15センチ)を万福寺の裏山に建立。65(昭和40)年には、多くの人に功績を知ってもらいたいと国道42号沿いに移設した。浪避堤防は今も約360メートル残っている。

 津波乃碑は1946(昭和21)年の南海地震後、津波の状況について後世の参考になるようにと当時の周参見町が建てた。この時の被害は死者17人、家屋流失136戸、浸水403戸と記録されている。高さ約1・6メートル、幅約1メートル、奥行き約30センチ。

 県立博物館(和歌山市)によると、県内で地震・津波関連の記念物を文化財指定している自治体は少ないという。