熊野古道 息づく伝承を訪ねて(3)箸折峠(田辺市中辺路町近露)/花山法皇の経塚、地名にも
熊野には平安中期から鎌倉時代にかけて、上皇や法皇らが盛んに参詣した。
出家して那智山にこもり、千日間の修行を積んだといわれる花山法皇(968~1008)も熊野御幸をしたと伝えられている。
その折りに法皇が経典を埋納したと伝えられるのが、田辺市中辺路町近露にある箸折(はしおり)峠の頂上付近。高さ約1・1メートルの古い石の塔が立っており、江戸時代の『西国三十三所名所図会』には「花山法皇経墳(きょうづか)」として、石塔の前で2人の旅人が手を合わせる図が描かれている。石塔の近くには、熊野古道中辺路のシンボル的存在となっているかわいらしい牛馬童子像がある。
「以前は、ずっと棚田が広がっていてね。ほんま、見晴らしのいい場所やったんよ」。峠を案内してくれた地元の語り部、久保智彦さん(77)はそう懐かしむ。いまはスギやヒノキの木々に囲まれているが、植林が盛んになる昭和30年代までは眺望が開け、眼下に近露の里や日置川を見下ろし、対岸に目をやれば山々の尾根が見渡せる場所だったという。
峠や地名のいわれにも花山法皇の伝承がある。法皇がこの峠で休み、昼食を食べようとした時、箸がないことに気付いた供の者が近くに生えていたカヤを折って渡した。カヤの軸の赤い部分に露が伝うのを見て「これは血か、露か」と法皇が尋ねられたことから「近露」の名が生まれ、カヤを折って箸にしたことから「箸折峠」と名付けられたそうだ。
法皇の伝承は「近露生まれなら誰でも一度は聞いたことがある話」と久保さん。「地域の歴史の一端を、こうして人に伝えていけるのが生きがいやね」と笑った。
(中沢みどり)
出家して那智山にこもり、千日間の修行を積んだといわれる花山法皇(968~1008)も熊野御幸をしたと伝えられている。
その折りに法皇が経典を埋納したと伝えられるのが、田辺市中辺路町近露にある箸折(はしおり)峠の頂上付近。高さ約1・1メートルの古い石の塔が立っており、江戸時代の『西国三十三所名所図会』には「花山法皇経墳(きょうづか)」として、石塔の前で2人の旅人が手を合わせる図が描かれている。石塔の近くには、熊野古道中辺路のシンボル的存在となっているかわいらしい牛馬童子像がある。
「以前は、ずっと棚田が広がっていてね。ほんま、見晴らしのいい場所やったんよ」。峠を案内してくれた地元の語り部、久保智彦さん(77)はそう懐かしむ。いまはスギやヒノキの木々に囲まれているが、植林が盛んになる昭和30年代までは眺望が開け、眼下に近露の里や日置川を見下ろし、対岸に目をやれば山々の尾根が見渡せる場所だったという。
峠や地名のいわれにも花山法皇の伝承がある。法皇がこの峠で休み、昼食を食べようとした時、箸がないことに気付いた供の者が近くに生えていたカヤを折って渡した。カヤの軸の赤い部分に露が伝うのを見て「これは血か、露か」と法皇が尋ねられたことから「近露」の名が生まれ、カヤを折って箸にしたことから「箸折峠」と名付けられたそうだ。
法皇の伝承は「近露生まれなら誰でも一度は聞いたことがある話」と久保さん。「地域の歴史の一端を、こうして人に伝えていけるのが生きがいやね」と笑った。
(中沢みどり)