「南方熊楠の英語力」 5月6日まで特別企画展、和歌山県田辺市の顕彰館
和歌山県田辺市中屋敷町の南方熊楠顕彰館は、2025年春期特別企画展「南方熊楠の英語力」を開いている。熊楠の英語力に関し、英語教育や比較文学の観点から実態を探る企画展。和歌山中学校や東京大学予備門での英語学習、アメリカ時代、イギリス時代、後半生と段階的に熊楠の英語力がどのように推移したのか、可能な限りで実証を試みている。5月6日まで。観覧は無料。
1867年に生まれた熊楠は、日本人として英語を本格的に学校で習った最初の世代に当たる。若い頃の熊楠は、15歳からの東京遊学、19歳からのアメリカ・イギリスでの生活を経て、類いまれな英語力を身に付けた。海外のさまざまな学者と英語で交遊、論争したり、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」などの一流の雑誌に多くの英語の論文を発表したり、日常的に英語で手紙や日記を書いたりと、熊楠の英語力は当時の日本の知識人の水準から見て、相当に高かったと考えられる。ただし、話すことはやや苦手だったことも、幾つかの資料からは推察される。
1893年に「ネイチャー」に掲載された英文論考「東洋の星座」は、熊楠の学者としての登竜門となった。その後、熊楠は英語を武器として駆使し、東洋の知によって西洋の知に挑み続けることで、研究者としてのアイデンティティーを築いた。今回の企画展示では、熊楠が「どのような英語を」「どのように学び」「どのくらいできたのか」について時代を追って考証している。
熊楠が正式に英語教育を受けるのは和歌山中学校に入学してからで、英語の授業は週に6時間から10時間あり、読書や習字(スペリング)、作文、翻訳が教えられた。恩師の鳥山啓に博物学の手ほどきを受けた熊楠は、13歳(和歌山中学校2年目)の時に英書や和漢の書物を参考にして「動物学」という自作の教科書を書き上げた。
東京大学予備門を退学した熊楠は、その後14年間にわたってアメリカ、イギリスに遊学。1891年にフロリダやキューバで地衣類や粘菌の採集調査をした後、ロンドンに移住した。93年の「東洋の星座」を皮切りに次々と「ネイチャー」に掲載された英文論考は生涯51本を数え、不滅の金字塔となった。
1900年、33歳で帰国した熊楠は3年ほど那智で過ごした後、74歳で亡くなるまで終生田辺で暮らした。「ネイチャー」への投稿は帰国後、年1本~数本に減り、47歳以降は途絶えてしまうが、逆にロンドンをたつ前年から66歳まで続いた、イギリスの学術誌「ノーツ・アンド・クエリーズ」への投稿は掲載数324本(ロンドン時代16、那智時代31、田辺時代277)に及んでおり、熊楠の衰えぬ英語力を示している。
展示資料は、熊楠の中学時代の自作稿本「動物学(第1稿)」、南方熊楠日記、熊楠の英文論考「米で馬を洗うこと」掲載号の「ノーツ・アンド・クエリーズ」(1916年4月8日号)など42点。熊楠の東京大学予備門時代の成績表の写真、熊楠と同級生だった塩原金之助(夏目漱石)、同じく同級生の正岡常規(正岡子規)それぞれの成績表の写真も閲覧コーナーで展示している。
5月3日午後2時~4時、顕彰館1階学習室で講演会「南方熊楠の英語力」がある。定員は30人。講師は志村真幸・慶応義塾大学准教授ら4人。聴講は無料で、申し込み不要。
開館時間は午前10時~午後5時(最終入館は午後4時半)。休館日は毎週月曜と4月30日(ただし、5月5日は開館)。
1867年に生まれた熊楠は、日本人として英語を本格的に学校で習った最初の世代に当たる。若い頃の熊楠は、15歳からの東京遊学、19歳からのアメリカ・イギリスでの生活を経て、類いまれな英語力を身に付けた。海外のさまざまな学者と英語で交遊、論争したり、イギリスの科学雑誌「ネイチャー」などの一流の雑誌に多くの英語の論文を発表したり、日常的に英語で手紙や日記を書いたりと、熊楠の英語力は当時の日本の知識人の水準から見て、相当に高かったと考えられる。ただし、話すことはやや苦手だったことも、幾つかの資料からは推察される。
1893年に「ネイチャー」に掲載された英文論考「東洋の星座」は、熊楠の学者としての登竜門となった。その後、熊楠は英語を武器として駆使し、東洋の知によって西洋の知に挑み続けることで、研究者としてのアイデンティティーを築いた。今回の企画展示では、熊楠が「どのような英語を」「どのように学び」「どのくらいできたのか」について時代を追って考証している。
熊楠が正式に英語教育を受けるのは和歌山中学校に入学してからで、英語の授業は週に6時間から10時間あり、読書や習字(スペリング)、作文、翻訳が教えられた。恩師の鳥山啓に博物学の手ほどきを受けた熊楠は、13歳(和歌山中学校2年目)の時に英書や和漢の書物を参考にして「動物学」という自作の教科書を書き上げた。
東京大学予備門を退学した熊楠は、その後14年間にわたってアメリカ、イギリスに遊学。1891年にフロリダやキューバで地衣類や粘菌の採集調査をした後、ロンドンに移住した。93年の「東洋の星座」を皮切りに次々と「ネイチャー」に掲載された英文論考は生涯51本を数え、不滅の金字塔となった。
1900年、33歳で帰国した熊楠は3年ほど那智で過ごした後、74歳で亡くなるまで終生田辺で暮らした。「ネイチャー」への投稿は帰国後、年1本~数本に減り、47歳以降は途絶えてしまうが、逆にロンドンをたつ前年から66歳まで続いた、イギリスの学術誌「ノーツ・アンド・クエリーズ」への投稿は掲載数324本(ロンドン時代16、那智時代31、田辺時代277)に及んでおり、熊楠の衰えぬ英語力を示している。
展示資料は、熊楠の中学時代の自作稿本「動物学(第1稿)」、南方熊楠日記、熊楠の英文論考「米で馬を洗うこと」掲載号の「ノーツ・アンド・クエリーズ」(1916年4月8日号)など42点。熊楠の東京大学予備門時代の成績表の写真、熊楠と同級生だった塩原金之助(夏目漱石)、同じく同級生の正岡常規(正岡子規)それぞれの成績表の写真も閲覧コーナーで展示している。
5月3日午後2時~4時、顕彰館1階学習室で講演会「南方熊楠の英語力」がある。定員は30人。講師は志村真幸・慶応義塾大学准教授ら4人。聴講は無料で、申し込み不要。
開館時間は午前10時~午後5時(最終入館は午後4時半)。休館日は毎週月曜と4月30日(ただし、5月5日は開館)。