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語り継ぐ記憶(2)シベリア抑留4年間/山本清治(やまもときよはる)さん(95)上富田町朝来

山本清治さん
山本清治さん
 上富田町朝来の山本清治さん(95)は、太平洋戦争終結後も4年間、シベリアに抑留され、飢えと寒さ、強制労働を耐え忍んだ。復員後、そんな捕虜の暮らしを「我が輩のシベリア抑留記」と題して、400字詰め原稿用紙221枚に書き留めている。

 すさみ町江住の出身。父親は腕利きの左官だった。10人きょうだいの家庭は貧しく、母の畑仕事を手伝うのが子どもの頃の日課だった。

 広島県呉市の軍事工場に勤めていた1944年9月、召集令状を受け、旧満州(中国東北部)の牡丹江にあった陸軍部隊に配属された。

 45年8月9日、ソ連軍が満州を目指して侵攻。激しい攻撃を受けて本隊からはぐれ、十数人の小さな集団で郊外に避難していた15日、終戦の知らせを聞いた。

 そこで市街地に戻ると、ソ連兵から「東京ダモイ(帰国)」と聞かされ、導かれるように仲間と付いていった。そこに多くの日本兵も合流。列車に乗せられた時は「帰国できる」と喜んだが、着いた先はシベリアの荒野だった。

 そこには収容所があり、600人ほどの日本兵が幾つかの棟に分けて詰め込まれた。監視は厳しく、逃げ出すことは不可能。そこで原野に道路を造る強制労働に従事させられた。

 直径50~60センチもあるアカマツをのこぎりで切り倒す。冬季には、最低気温が氷点下50度にもなる未開の地である。凍結した地面につるはしを打ち込んで切り株を取り除き、道を造った。その後に鉄道が敷かれた。

 労働後の食事はわずかな黒パンとスープのみ。空腹は極限に達し、木の皮をかじり草を食べた。毒キノコを食べた仲間もいれば、猫を食べた者もいた。

 衛生状態は着の身着のままで劣悪を極めた。異常な数のシラミにも悩まされ続けた。

 極寒と栄養不足で次々と仲間が死んでいった。隣で食事をしていた仲間がばったり倒れ、そのまま死んだこともあった。死体はシラカバの林に捨てられた。

 「生きて日本に帰れるなんて思ってもみなかった。毎日、その日一日を生き延びるのに必死だった」

 抑留生活の終盤、監視役の住家を建てることになって職人の募集があった。左官として応募すると採用され、技術を買われて暮らし向きは少し楽になった。

 抑留生活丸4年になった49年9月、寝食を共にしていた職人仲間7人とともに帰還命令を受けた。大歓声を上げ、万歳を繰り返した。

 数日後、ナホトカ港から船に乗り、舞鶴港に上陸。故郷のすさみで母と病床の父との再会を果たした。

 厚生労働省の推計では、旧ソ連による抑留者は約57万5千人で、うち約5万5千人がシベリアやモンゴルで死亡している。
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