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語り継ぐ記憶(1)/田上(たのうえ) さよ子さん(89)/上富田町岡/焼夷弾の爆音 鮮明に

語り継ぐ記憶1/田上さよ子さん
語り継ぐ記憶1/田上さよ子さん
 白浜町保呂の農家に、4人きょうだいの末っ子として生まれた。小学5年生だった1945(昭和20)年6月、学校が休みの日曜のことだった。父親と一緒に自宅の納屋で麦の脱穀をしていた昼ごろ、突然雷が落ちたような爆音に襲われた。

 落ちたのは、焼夷(しょうい)弾。学校で教わった通り、すぐその場に伏せ、親指で耳をふさぎ、残り4本の指で目を押さえた。「ものすごく大きな音だった」。当時の恐ろしさは今も鮮明に記憶している。

 「寺に落ちたらしい」と、父親や近所の男性らが話していた。林翁寺(白浜町内ノ川)が全焼し、近くの民家も焼けた。焼夷弾は自宅周辺にも落ちたが不発。直径1メートルくらいの穴がいくつもできていた。家族や知り合いは無事だったが、後日「5歳の女の子がけがをした」「小屋にいた牛が死んだ」などと伝え聞いた。

 戦時中の生活で印象に残るのは、学校に着ていく白いブラウスを母親がシソの葉で紫色に染めたこと。白色は目立つので、敵機の機銃掃射の標的になりやすいというのが理由。学校からの指示だった。

 都会暮らしと違い、農家は食べ物を自分で作ることができた。米や麦、野菜を着物などと交換してほしいという親戚が度々訪ねてきた。交換する品物を持たず、農作業を手伝うから食料を譲ってほしいと申し出る人もいた。

 食料不足、生活困窮は戦後も続いた。痩せ細った子どもは身近にも。中学校を卒業するころ、同級生から「当時、昼休みは(弁当を持ってきていないので)運動場の隅で座っていた」という話を聞いた時には、言葉に詰まった。「知らなかったよ」と返すのがやっとだった。

 21歳で農家に嫁いだ。今、自宅の一室には9年前に他界した夫や孫ら家族の写真が並ぶ。「戦争はもうしてほしくない」。切実な思いを口にした。


 終戦から79年目の夏が訪れた。戦後生まれが人口の8割を超える時代。戦争の悲惨さを共有し、平和へ思いをはせるため、体験者の「語り継ぐ記憶」を連載する。

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