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学校日誌に戦争の足跡 みなべ町清川尋常高等小、現代語訳へ

昭和初期の清川尋常高等小学校の学校日誌
昭和初期の清川尋常高等小学校の学校日誌
当時の地域や学校の様子などが書かれている
当時の地域や学校の様子などが書かれている
 みなべ町清川にかつてあった、清川尋常高等小学校(清川国民学校)の1930年代から40年代初頭の「学校日誌」を、町文化財審議会の上村浩平委員長が現代語訳した。2冊あり、計1375日分。当時の学校だけでなく村の様子が書き留められており、日中戦争の始まり、出征兵の見送りなど、より大きな戦争への道を進む様子も残されている。町教委は、貴重な資料として冊子にまとめ、図書館や各学校に置く計画にしている。


 1冊は1932~36年の5年間の2学期の分、もう1冊は37~41年の5年間の1学期の分。上村さんによると、戦前戦中の日誌の多くは、戦後間もない時期に処分されたと思われるが、この2冊だけが残っていたという。

 日誌には「朝会記事」「重要記事」「掲示記事」「其の他の記事」という記入項目があり、細かな字で記録されている。上村さんが、田辺市の紀南文化財研究会近世史部会員、真砂さかゑさんの協力を得ながら、読みやすく現代語訳した。

 日誌は校長や係の教員が記したようで、2学期分にはふるさとの日々の姿がある一方で、1学期分からは、日中戦争が始まり、地域や教育現場も戦争が色濃くなる様子が伝わってくる。

 「満州出動兵士の武運祈願の為五千度参をなす」(37年7月9日)、「明朝八時より校庭にて○氏の送別式 日の丸旗をこしらえる」(7月16日)、「婦人会員千人結び」(7月28日)などの記述が続く。

 38年6月17日には「昨夜の充員召集清川村で十一名。事変はじまって以来の大召集である。時日丁度農繁期 銃後の仕事は益々増してくる。吾人は大なる覚悟をせねばならぬ時が来たのである」、6月19日は「銃後の我々の務めは今迄の様にしていてはならぬ時代が来た。二人前、三人前の働きをせねばならぬ。教壇に立つばかりではない。野に立って働かねばならぬ」と書かれている。

 「国民学校への新しき第一歩を踏み出す。国家の意図する大いなる企画に対して誠に貧しい準備ではあるが、忠実に奉公せんことを誓うのみだ」(41年4月8日)という書き込みもある。

 連日並ぶ戦争関連の記述。そうした文字から、子どもたちが日常、学校や地域で目にしていた光景がありありと浮かんでくる。まとめる冊子の中では、時代背景も盛り込む構成を考えている。

 上村さんは「戦争のために『非日常が日常化していった』1375日だったが、それは清川という小さな村の小学校だけでなく、全国にあった日々でもあるはず。当時の体験を語る人が少なくなる中で、そのことを念頭に置きながら読んでいただきたい」と話している。

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