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語り継ぐ記憶(4)/中岸秀子〈なかぎし ひでこ〉さん(78) 田辺市本宮町本宮/ひもじい記憶今も

中岸秀子さん
中岸秀子さん
 終戦の1945(昭和20)年、当時住んでいた大阪市はたびたび空襲の被害に遭った。大阪府内の死者は1万5千人を超えたといわれる。

 当時1歳半。空襲の記憶はない。母や周囲の大人から、聞いた話だ。ただ、空襲で燃える町の映像は鮮明に残る。「これも聞いた話から作られた記憶なのかもしれない。それでも火事ともまるで違う。全てを焼き尽くすような炎だった」と話す。

 九つ上の兄は疎開していた。母は七つ上と五つ上の姉と手をつなぎ、末っ子だった自身は背負われて炎の中を逃げた。

 混乱の中で、知らない間に下の姉が手を離し、母はよその子の手を握っていた。気付いた時はもう姉がどこにいるか分からなかったという。

 翌朝、姉とは無事再会できた。よその子の親も見つかった。「子どもの頃に聞いた時も驚いたけれど、親になって、当時の母がどれだけパニックになっていたか分かった」と振り返る。

 家族誰一人欠けることなく終戦を迎えた。しかし、家は焼け落ち、食料もなかった。さらに祖父、父が相次いで亡くなった。母一人での子育てが始まった。

 お金があっても食料が買えない時代。米を手に入れるため、母と鳥取県まで行った。ただ、せっかく着物と交換した米は警察官に没収された。「みんな米を帯などに隠していたけれど、母は私を背負っていたので隠すところもなかった」。ひもじい日々は続いた。

 自身も小学1、2年生の頃には鉄くずを拾って、鉄工所に持って行き、駄賃に換えていた。「仕事」を終えた後に食べたうどんやおでんの味は忘れられないという。

 「苦労があったから、今の幸せを実感できている。母から聞いた戦争の話、戦後の体験は、子どもや孫には実感できないだろうと、ほとんど話したことがない。ただ、ウクライナで戦禍が続いている。戦争はいけないと少しでも伝わればいい」と話した。

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