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2024年11月23日(土)

語り継ぐ記憶(7)/田中(たなか) すずゑさん(95)/田辺市新庄町/帰らぬ先輩思い涙

田中すずゑさん
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「語り継ぐ記憶」閲覧
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 1945(昭和20)年1月、学徒勤労動員で兵庫県明石市の軍需工場で働いていた田辺高等家政女学校の先輩11人が空襲で亡くなった。いくつかのグループに分かれ、防空壕(ごう)に避難していたが、爆撃により防空壕そのものが土砂に埋もれたのだと聞かされた。

 「遺骨を納めた白木の箱を抱えて帰ってきた先輩たちが、田辺駅に降りるのを迎えた光景は今でも目に焼き付いている。戦争のむごさを実感した」と涙ぐむ。

 亡くなった先輩とは1学年違い。もし、もう1年早く生まれていたらと思う。「グループは身長順で決められていた。亡くなったのは一番小さいグループ。学年一身長の低い私は、間違いなくそのグループに入っていた。1年の差が生死を分けた」と話す。

 4月に進級し、御坊市の工場で働いた。「同世代の女性ばかり集まっているから、おしゃべりを楽しんだこともある。でも、食べる物がなくて、ツワブキなど野草がおかずだった。空襲警報が鳴ると、ふとんを抱えて浜まで避難した」と振り返る。

 戦況が悪化し、7月ごろに工場勤務が終了。一時、富里村(現田辺市大塔地域)の実家に帰省した。実家は農家。父はすでに亡く、兄は出征していた。母が女手一つで広い農地を守っていた。ただ、米もサツマイモさえも供出したため、農家でも食べ物はなかった。

 実家から学校のある田辺市街地まで送ってくれる人はいない。手押し車に荷物を載せ、1人で歩いた。「田辺で空襲があり、上富田町朝来で足止めされた。警察官には荷物を全部調べられた。一体、私が何を持っていると思ったのか」と話す。

 「戦争、亡くなった先輩のことを知っている人はもう少ない。子どもにもほとんど話したことはないけれど、今伝えないといけないと思った」と力を込めた。
=おわり

 (この連載は喜田義人、沖本真孝、稗田裕子が担当しました)


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