和歌山県南紀のニュース/AGARA 紀伊民報

2024年11月24日(日)

語り継ぐ記憶(2)/野村 慎(のむら しん)さん(87)/白浜町/ひもじさ忘れない

語り継ぐ記憶☆野村慎さん
語り継ぐ記憶☆野村慎さん
 日中戦争が始まった1937(昭和12)年生まれ。空襲も、疎開も経験したが、一番記憶に残るのはひもじさだった。食料確保のため、田辺第一小学校の運動場は、入学時すでにサツマイモ畑になっていた。

 実家は田辺市北新町で菓子問屋をしていた。「『食べるものはいっぱいあっただろう』と言われるが、とんでもない。配給制の世の中で、商売なんてできない。食べ物がある農家がうらやましかった」

 一家は小さな畑を耕し、ニワトリやアヒルを飼った。卵は貴重な栄養源。ニワトリの世話を任され、刈った草や貝殻をつぶした粉を餌として与えていた。

 戦時下でも友人と遊ぶのは楽しかった。登校時は御真影(天皇・皇后の写真)に最敬礼、下校時は先輩たちとそろって帰った。

 遊び場は三栖口の道路。「缶蹴りも縄跳びも、相撲もした。大人が裸電球の下で繰り広げる囲碁や将棋も観戦。道路がご近所の社交場だった」と振り返る。

 ただ、戦況は日常を脅かすほど厳しくなっていく。肥料にするため、鶏ふんを屋根に干していたところ、戦闘機が急接近して機銃掃射を始め、慌てて屋根から下りたこともあった。兄たちがリヤカーを引き、秋津町方面に避難するのが常だった。

 45(昭和20)年6月には、10軒ほど先にあった2階建てで、地下に防空壕(ごう)がある大きな家が爆撃を受け、住民が全滅。肉片が飛散しているのを目にした。

 これを機に、一家はみなべ町の山間部に疎開。大きな梅倉庫で暮らし、そこで終戦を迎えた。

 「戦時下はみんな貧しかったけれど、持っている人が独占するのでなく、分け与える助け合いの気持ちがあった。今はすっかりぜいたくになったけど、争いが絶えない。思想を押し付けるのでなく、思いやる心がないと悲劇はやまない」。昨今のニュースに不安を感じている。