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(1)村人の声に励まされ

《蚊は人を恋いつづけ待つ生けるもの獲物を追うはなべて恋にて》



 夏の盛り、JR紀伊富田駅前から、大辺路・富田坂の入り口を指して歩く。大辺路では世界遺産に登録されている三つの坂、富田坂・仏坂・長井坂を順に歩く計画である。

 富田坂の登り口に到着すると「崩落箇所あり」の文字が目に入った。いかにも臨時ごしらえの案内地図が、通行不可箇所と迂回(うかい)路を示す。こういう情報は、ここに着く前に知りたかったなあ、とため息をつきたくなった。

 事前にインターネットで資料を集めたけれど、そんな情報は見つからなかった。恨めしく思ったが、すぐ考え直した。現地に行って初めて状況が分かる、それがむしろ普通だ。情報万能主義に染まりかけていた自分に気付く。

 山道の一歩目から、生きものたちの騒がしいこと。足元を逃げるカニ。迫る蝉の声。まとわりつく蚊。虫除けスプレーを吹きつけながら歩く。

 急勾配の「七曲がりの坂」が始まる。両側はヒノキ林、もう蝉も鳥も鳴いていない。しかし視野はにぎやかだ。道いっぱいに石が散らばり、その一つ一つを鮮やかな緑色の苔が染めているからだ。

 坂は長くきつい。途中から頭の中は「峠の茶屋跡」という言葉でいっぱいになった。この先にある旧跡だ。跡だからもう茶屋はないのだが、そこに行けば〈休息〉があるはずだという幻影を描いてしまう。

 結局、目は苔ですべらぬよう足元ばかりを見、心は「峠の茶屋跡」に奪われて、風景を記憶する余裕もなかった。ようやく着いた茶屋跡は、切り株ばかりだった。

 安居辻松峠に着いた。この先のどこかが崩落しているらしいのだが、迂回路がどうなっているのかよく分からない。予定を変え「JR椿駅方面」を指す標識に従って下りることに。どこにせよ、駅までたどり着ければ何とかなるだろう。

 ところどころ埋もれかけた道を、探し探し歩いた。山を下りたら近畿自動車道の広い工事現場に出た。休日で人がおらず、手掛かりが何もない。一か八かで現場を突っ切ったら、行く手に一軒の民家が見えた。草を取っていた女性に「椿駅はこの先ですか」と尋ねると「はい、もう10分か15分行けば」。

 よかった。ご主人も声をかけてきた。「どっから? 富田から? 一人で? えらいよー」

 これがうれしいのだ。疲れた足も、不安な心も、いっぺんで生き返る。山へ行くと、心は落ち着くどころか、普段よりもいっそう激しい振り幅で揺れる。心の運動不足解消には、もってこいである。

気化熱の保冷マフラー首に巻く陸に上がったわたしのえら


安居辻松峠の地蔵

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