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(6)心奪われる稲田の風景

《背を向けて田のなかほどにいる人はこの整然を描き上げた人》


 稲葉根王子から出発し、熊野霊域の入り口・滝尻王子までを歩く。口熊野の旅もクライマックスに近づいてきた。国道311号を歩けば、視野の前方、熊野の深い山々がもう近くに迫っている。

 向かって右手には富田川が沿う。広い河原に降りてみた。水は透き通っている。

 昔の参詣人たちは、早く本宮に着きたい気持ちと、長い山道に入る前の、つかの間の川風を楽しんでいたい気持ちに揺れたのではないだろうか。

 市ノ瀬橋を渡ると、小高い農村集落に入った。国道から離れ、ぐっと静かになった。

 早苗田のみずみずしさに心を奪われる。稲づくりのはじまりの風景が、こんなにきれいだとは知らなかった。まだ背の低い苗の緑は、蛍光色のように鮮やかだが、姿はとても繊細で、かすかな風にもそろって揺れる。

 田んぼって、美しい。一ノ瀬王子の木陰のベンチで、吸い込むように心にとどめた。

 その先、しばらく舗装路を行き、藤原定家歌碑と案内板の前に出た。後鳥羽上皇とそのお供・定家らの楽あり苦ありの旅に想像をめぐらせた、旧大塔村教育委員会による楽しい案内板だ。

 それを過ぎると道は梅畑の中のあぜ道となり、幅もどんどん狭まってゆく。とうとう山へ入りつつあるのだ。いつの間にか、ふかふかの土が足の裏にやわらかい。

 やがて、川に沿う崖上の道となる。流れはすでに、足元の遠く下方だ。その川へ向かって、道の片側があちこちで崩れ落ちている。昨年の台風12号の痕跡だ。私の片足の幅しか道が残っていない所もあり、一歩を踏み出すのにも勇気がいった。

 丸太を組んだ橋やロープなど、崩落地を越えるための緊急整備箇所が次々現れる。手に持っていた地図もメモ帳もペンもリュックにしまいこみ、首からかけていたカメラのストラップは斜めがけにして、ここばかりは足を運ぶことに神経を集中した。

 ただ一度の雨が、地形を一変させる。その猛威を、遅ればせながら知る。

 最大の難所を過ぎて少し進むと、やや道幅の広がった場所に出た。木製のテーブルといすを置いた休憩所になっており、思わず腰かけた。

 眼下に、富田川の静かな渕(ふち)が見えた。水面は午後の太陽を反射して、きらめいている。あの厳しい崩落、洪水を引き起こした川と同じ川には思えない。本当に不思議な気持ちがした。


《村誘致一号企業の前庭を歩く人かげ初夏の陽ひが塗る》






静かに広がる水田の風景。かすかな風に早苗がそよぐ

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