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(3)自然と人が接する点・線・面

《飛び立った残像は雉(きじ)? 恐れるかこんな無力な二足歩行を》




 高原の宿を発つ。数分も歩くと集落は終わる。「ここより近露王子までは民家がなく、連絡の方法がありません」との立て看板がある。

 そういう危うげな道を、特段の用事もないのに、なぜ私は歩くのか。

 上皇・貴族でも庶民でも、昔の参詣人にはこの道を行く理由がちゃんとあった。信心と苦行をもって詣でれば、浄土へ行ける。人間の精神が、想像力が、緻密につくり上げた壮大な思想構造。浄土の強力な吸引力に引きつけられて、人々は歩いた。

 そんな彼らに「あなたは何のためにここへ?」と聞かれたら。自問してみると、彼らとは逆に、人間がつくり上げた現代社会システムから逃れたくて、という答えに至る。

 「簡単・便利」「いつでもどこでも」。電子マネーや携帯端末。望みもしない〈快適さ〉を与えられ、かえって不快になる。もう結構、と思っても、拒む余地さえない…。

 〈便利さ〉への信仰が生んだシステムの網の目を抜け、木、花、土、岩、空や風、そういうものとだけ一緒にいられる時間を持ちたかった。

 しかし、そういいながら歩くこの道は、人の干渉なしには存在しない。自然は勝手に道にはならない、道を道にしたのは人だ。森を切り開いた人。石垣や石畳を敷き、道しるべを立てた人。その道筋を踏み固めてきた無数の通行人。今ここを歩く私も、共同作業の末端に参加している。

 杉林の中を延々と歩く。合間にときどき現れる雑木林と見比べると、杉がいかに特殊な木であるかが分かる。

 たいていの木は、幹や枝が曲がったり傾いたりしているが、この木は一直線。杉の名は「直ぐ」な木であることに由来するというが、その通りで、人がこの木を格別に重宝してきたのもうなずける。

 この道を歩いていると、自然と人間生活が接する点・線・面をいくつも見ることができる。

 悪四郎山、上多和を過ぎると、三体月伝説の説明板がある。陰暦11月23日の夜、「一体の月が顔をのぞかせ、あっというまにその左右に二体の月が出た」という。

 このおおらかさが好きだ。背後には修験の思想があるようだが、もっと根本にあるのは、人工ではなし得ぬ圧倒的な力や美を見たときの「すごい」「なんてきれいなんだ」という素直な驚きだろう。

 神仏に救われて浄土へ、という思想以前の、単純な驚きのまま、この山々を見つめることができないだろうか。


《見る者の胸の内などかまわずに暗夜輝く三体の月》




牛馬童子を過ぎ、林を抜けると、突然、近露の眺望が広がる

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